聖書箇所:ルカによる福音書 2章1~20節、ミカ書5章1~3節、
テトスへの手紙2:11~15 (クリスマス礼拝)
説教題:「クリスマス物語」 長門教会2024.12.22
今年のクリスマス礼拝の説教題は「クリスマス物語」としました。この題で表されているクリスマスに関する物語とは、その多くが人間に対する神様の愛と奇跡に関係するものではないかと思います。神様の愛は「アガペー」というギリシア語で示されますが、日本語の「愛」に相当するギリシア語は3つあることを何回か過去にお話しました。ご記憶にあるかと思います。
1.アガペー(無償の愛、母の愛が一番近い)
2.フィリオ(友情)
3.エロース(男女間の愛)
この3つです。神の愛が全人類に対する無償の愛であることからして、1番目の「アガペーの愛」が神の愛としては、最も相応しい言葉という事になります。クリスマスが語ろうとする愛と奇跡のお話が、男女間の恋愛とは全く異なって、人種・民族・性・身分・能力等々、人間の間に存在する全ての垣根を取り払ったあらゆる人間に対する愛、人類愛そのものである。そのように言えるかと思われます。
私が今まで見たり、耳にしたことがあるクリスマス物語としては様々のものがありました。今でも強く記憶に残っているクリスマス行事の経験において、クリスマスを心から喜ぶことが出来たのは、教会学校(CS)の行事の時だったように思います。未だに覚えている教会学校の思い出は、教会学校の先生が子供たちに発した質問にあった「クリスマスって何なのでしょうか?」と云う問いかけかです。
既に日本でも国民的行事として定着してしまったクリスマスなんですが、「クリスマスって一体何なのでしょうか?」という話題について、今日はもう少し深めて考えてみたいと思います。
ただ今司会者からお読み頂いた、聖書テキストの三つの箇所、ルカ福音書2章1~20節、ミカ書5章1~3節、そしてテトスへの手紙2:11~15の3つ聖書個所には、イエスの誕生という聖書の預言に基づいて起こった奇跡の物語が記されています。これらの物語に於ける奇跡というものは、人間の力だけで理解したり説明したり出来るものではないことが書かれています。何故かと言えば、それは神様が説明するものであるという理由に依ります。
私たちクリスチャンは2000年を超える期間に於いて、ずっと主イエスのご降誕をお祝いして来ました。皆さま良くご存知と思いますが、あの良く知られた宗教改革者のルターは、「クリスマスは、心の中のクリスマスでなければ勿体ない」と語っています。その意味は、クリスマスは《内なるクリスマス、(心の中のクリスマス)こそが、神様のなされた奇跡なのだ》、ということでありましょう。神はこの奇跡に関して、次のように3つのことを教えて下さっています。それは聖なる
1.「道」
2.「約束」
3.「力」
この3つの事柄によるものです。クリスマスの奇跡に関して、神様が説明されている内容を順に学んでみたいと思います。
クリスチャンの中でも、クリスマスと言えば「降誕劇」がつきものと言われるように、マリア、ヨセフ、博士たち、ザカリア、エリサベトといった人物を中心にした物語を、ついつい思い浮かべてしまいます。ところが、クリスマスを創造されたのは神様なのですから、クリスマスの中心になるお方とは、実は神ご自身なのです。そこで今話題にしている、神が示した第1の約束である聖なる「道」とはなんであるのかについて考えて見ましょう。
ルカ福音書の2章8~14節には、神がクリスマスのために選んだ3つの道が書かれれています。ここには、
1.「神は天使を遣わされた」
2.「イエスの誕生の地として、ダビデの町を選ばれた」
3.「イエスの母に、マリアという若い女性を選んだ」
という3つの選びが示されます。今日は何回も3つという数字が出て来て迷ってしまいそうですが、まず、1番目の選びの「神は天使を遣わされた」こと。これは、ルカ福音書に「天使」が主イエスのご生誕を知らせたと記されていることです。天使という呼び名ですが、これは「御使い」あるいは「天の使い」とも呼ばれます。ギリシア語では「アンゲロス」と言います。旧約聖書が書かれているヘブル語(ヘブライ語)では「マラーク」となります。英語の場合はギリシア語のアンゲロスが変化した「エインジェル」となります。人と神の中間的な存在であって、神の周辺にいつもいてメッセンジャーの役割を果たす方、それが天使であります。
次に2番目の選びのである「イエス誕生の地」に関する話ですが、神が選ばれた主イエスの誕生の地が、「ベツレヘム」という町であることが示されています。それはこの町の名が、先ほどお読みした旧約聖書箇所ミカ書の5章1節に記されている町であることによって知ることが出来ます。
最後に3つ目の「イエス様の母」に関する選びというのは、マリアなる女性を神様が選ばれたのが旧約聖書のイザヤ書55書8-9節またはエレミヤ書29章11節によって預言された選びだということで示されます。旧約聖書のこれらの箇所に書かれていることは、神の選びは私たち人間の選びとは異なって、遥かに優れて遥かに正しいものだということです。
神様は、これらの選びによって、先ほどあげた奇跡の2つ目である「約束」を実現して下さいました。この約束は「ダビデの町」にイエスが誕生した事実によって示されたことを言っています。つまりこれは、「デビデの家系に生まれた子が偉大な人になり、その支配は終わることがない」という途方もない約束だったのです。この約束こそが、旧約聖書に示された「メシヤ預言」と呼ばれているものです。旧約聖書に記された預言というのは、それこそ旧約のあちこちに見ることが出来ます。これらの預言では、メシヤは主として3つの姿で説明されています。再び3という数が出てきますが、それは、
1.神の子
2.ダビデの家系
3.人の子
このような3つの姿です。この約束の通りに神様は、イエス・キリストにおいて3つのイメージを実現されています。これが奇跡に関する第2番目の聖なる「約束」ということです。
最後に、3つ目の奇跡である聖なる「力」ということについてお伝え致します。神が示される「力」とは、ルカ1章34-38節に記されている内容です。つまり、「神とって不可能なことは何もない」という言葉に象徴されている示し(証し)であります。これは、イエス・キリストの母マリアがメシヤを宿すためには人間の父が必要なかったという出来事です。これと同じように、旧約聖書に示された「信仰の父アブラハム」は、90歳のときに子を神から授かりました。ル福音書の36節に示されている赴任の女と言われたエリサベトも同じくバプテスマのヨハネを宿しています。これらの話しの中で示さるように、「神の力」とは「聖霊の力」であると言えます。聖霊がマリアの上に臨んだ時、《いと高き方がマリアを覆った》という出来事によって示されています。
《神に出来ないことは何一つない》。この真理を示すものが、「クリスマスの奇跡」であります。イエス降誕劇の物語から、私たちが答えとして発することの出来る言葉、それは、ルカ福音書1章38節に示されているマリアの言葉です。
「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように。」(ルカ1:38)
という言葉は、私たちの答えは神様の力である「クリスマスの奇跡」を信じることだけだと語っているのではないでしょうか。
本日はいくつかの例を挙げて、「神の奇跡」が意味するところのメッセージをお伝えしました。
「キリスト教の聖書の話しを信じたいのだけれど、なかなか信じられない。」
こんな言葉を、私たち牧師・教師の立場にある者は、求道中の人たちから日ごろよく訴えられます。この言葉に対して、私が自信をもって言えるのは、「信仰とは、信じてみなければ分からないものです。」 こんなことだけです。
あなたが好きなこと(人)について、他者から、「どうしてそんなこと(人)が好きなの?」と問われたとき、本心から正直な答えとしては、「好きだから好きなの・・・」としか言いようのないものではないでしょうか。これは、感情によって生じた事柄の場合、説明のしようがないからなのです。その一方、信仰は感情とは異なりますが、「信じられると思うから信じるのだ。」としか答えようのないものです。誤解を恐れずに言わせて頂くならば、「信仰とは決断」であって、「自分の生き方として信じる」、と「決断したことにより初めて信じられる」、と言えるのではないかと思うものです。
世の中には様々な宗教がありますが、いわゆる、怪しげな宗教、異端的(間違った教義)な宗教というものは、得てして理屈が通っているものです。それとは逆に、宗教が正しく正当であるほどに、「理屈とか上手な説明によって宗教上の疑問は解決されない」、とも言えるのかも知れません。
「お言葉通りこの身になりますよう・・・」として、神に全てをお委ねするところに、信仰の真骨頂、信じることの第一歩が隠されているのではないでしょうか。 アーメン
下記には、12月22日長門教会礼拝の説教の録音があります。
プレーヤの▶マークをクリックすると、礼拝説教を聴くことができます。
起動中に ||をクリックすると停止します。
12月22日 クリスマス礼拝説教の録音(説教者 渡辺牧師)